生活の場である介護施設でも、ゆるりと終末期が忍び寄る。認知症などで徐々に判断能力が衰えてくると、その人がどのようなケアや医療を望んでいるのか、周りが憶測するよりない状態に遭遇する。そして、終末期に際して、医師や家族が良かれと思って選択したことが、実は患者の思いと違っていれば、「自己決定権」の侵害にもなりかねないことがある。
こうした倫理的な問題を回避するには、事前指示書(Advanced Directives)と呼ばれる書類が有用かもしれない。リビングウィルとほぼ同義語だが、いわゆる尊厳死だけに限定せずに、より長い期間、広い範囲にわたって、延命治療を含めて望む医療・望まない医療、医療やケアに関して代理で意思決定をしてもらう後見人などを指定しておくものだ。本格的な公的書類となると面倒だが、例えば、日本の草分けである日本尊厳死協会では、「尊厳死の宣言書」といった簡略化した書式を備えて普及を図っている。
医師で生命倫理研究者の箕岡真子氏らは、在宅医療などの経験に基づいて「私の四つのお願い」という書式を作った。アメリカの「Aging with Dignity」という団体が作成し、100万人以上が使用している「Five Wishes」を手本として、法律家などとも議論しながら日本向けに作り替えたものだ。尊厳死協会の宣言書が「延命措置を拒否する」と、治療の差し控えを求めているのに対し、「四つのお願い」には、最後まで延命治療を受けたいという選択肢も盛り込まれている。
アメリカでは1991年、連邦法である「患者自己決定法」が制定され、事前指示書は法的拘束力がある。日本でもそれを尊重しようというのは自然な流れだ。オーストラリアでは、病院やナーシングホームに入るに当たっては、後見人と事前指示書を用意することが、法律で定められている。併せて、本人の意思が不明な場合の選択について、適切な手続きを踏んでいることも重要だ。多くの国では、介護施設においても中立的な倫理委員会を設置している。こうした手続きや事前指示書は、患者のためのみならず、医療やケアの提供者の苦悩をやわらげ、時に身を守ってくれるものにもなるはずだ。
介護が必要になった主な原因を見ると、既に認知症が2割に達しており、他の障害に認知症を合併している人も少なくなからずいる。日本では認知症の人は200万人を超えるとされ、2020年代には300万人以上、高齢者の10人に1人が認知症という時代がやってくる。進行してしまってからでは、意思判断能力があるとは考えにくいので、事前指示書はできるだけ元気なうちに書いたものであることが大切だ。
しかし、認知症であれば、全く自己決定できないわけではないということは心しておくべきだろう。進行した認知症の人であっても、表情から快・不快といった感情を読み取ることができる。それが人権への配慮につながる。


事前指示書 日本では…
1976年に設立された、日本尊厳死協会の会員数は、現在12万人以上。うち約3分の2が女性で、身内の終末期を介護したり、看取る機会が多いため、自らの意思を明確にしておきたいという思いを強くするためだとされる。年会費は個人2000円(夫婦3000円)で、署名・捺印した「尊厳死の宣言書」は同協会に保管されるほか、コピーが2部返送され、1部は本人保管用、もう1部を信頼できる近親者に預ける。この他、「終末期を考える市民の会」が考案した「終末期の宣言書」、カナダで作成され、二ノ坂保喜医師が普及を進める「レット・ミー・ディサイド」などがある。