2010年、記録的猛暑がロシアを襲った夏、モスクワに住む高齢の知人を案じ、実に15年ぶり、8回目のロシアへと渡航した。ソ連崩壊から20年を経て、“医療は無料”という理想郷崩壊後、医療制度はどう変わっただろうか。
ロシアは日本の最大の隣国だが、当地の医療について語られることは少ない。ロシア革命を経て1922年に成立した世界で初めての社会主義国・旧ソビエト連邦は、医療や教育は無償、税金も徴収しないという壮大な社会実験であった。ソ連時代の医療は中央集権的で、感染症対策や病院医療が中心だった。
共産党が求心力を失い、91年にソ連は崩壊したが、93年に制定された新体制化のロシア憲法でも、国の扶助から強制保険方式へと姿を変えつつ、公的医療機関の受診無料の原則を踏襲。基金は統一社会保障税から拠出されていたが、2010年からは雇用者が直接保険料を払う方式に変わった。
95%を占める公的な医療機関は外来診療所と入院病院の2本建てで、地域で登録
された市民に限り無償だが、非効率で医療水準もサービスも十分とは言えない。地方分権化の弊害で、「保険証1枚で全国どこでも無料」とはなっていない。
統一社会保障税年金への拠出が大半で、一般財源から繰り入れても医療費不足は常態化し、社会的弱者を除き、検査や院外処方の薬剤費などは自己負担。少しでも良い医療を求めて、非公式な支払いも日常的で、有償と無償の線引きは不透明だ。
富裕層は、大都市にあるソ連時代の特権階級向け病院や私的医療機関などで自費診療を受けている。日本の医療ツーリズムもこの層を当て込み、政府は長期滞在可能な医療滞在査証発行を開始した。指定私立病院を無料受診できる民間保険会社の任意保険も登場し、福利厚生の一環で導入を進める企業が増えた。
注目すべきは医師数の多さで、人口1000人当り4.3人(03~08年)は世界4位。病床数も9.7床(同)と多い、軍事優先で民生が疎かにされたツケとして医療施設や機器の老朽化といううらみはあっても、医師数や病床数は必ずしも医療の質につながっていないと見られる。医師の給料は国民平均所得並に抑えられ、モラルの低下も指摘されており、生活のために職業を変わる医師もいるという。
社会体制の激変や景気後退で失業者があふれ、特に男性の死亡率が急上昇、平均寿命は一時50歳代にまで落ち込み、男女差も世界一大きかった。死因ではアルコール依存などからくる循環器疾患が多く、HIVや結核などの感染増や喫煙率上昇、交通事故や犯罪の増加に加え自殺も多く、死亡率を押し上げた。男性の短命傾向は近年では反転に転じているが、学歴や所得による健康格差が広がった。
国も地方政府も医療の拡充を政策課題に挙げ、近代化や利便性向上、医療者の待遇改善のための拠出を進めている。健康格差は日本も人ごとではない。他山の石とするためにも、注視していきたい。


【ロシア連邦】
中世に成立し、帝政ロシアの流れを汲む歴史ある共和国国家。1817年のロシア革命を経て、69年間にわたって、周辺の10数カ国と共にソビエト連邦を形成していた。ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命によりソ連が崩壊(91年)した後、ブラジル、インド、中国と並び、経済成長が著しい4大新興国に位置付けられ、世界一のエネルギー供給国でもある。日本の約45倍という世界一の国土に、世界第6位の1億4千万人余りの人口を擁する。合計特殊出産率1.16(99年)から1.54(2009年)と上向いてきたものの、人口は92年をピークとして日本を上回るペースで減少に転じている。平均寿命(10年)は男性63.03歳、女性は74.87歳。65 歳以上の高齢者の割合は13.3%(09年)にとどまるが、少子化・短命化の改善に伴って高齢化率も上がっており、今後は年金や医療の問題も深刻化すると見られる。